就労移行支援事業所には、日々の業務や就職活動において、様々な悩みを抱える方々が相談に来られます。その中でも、「手先が不器用で、特にハサミをうまく使えない」という悩みは、発達障害のある方から聞かれることもある切実な課題です。
事務作業での書類の裁断、軽作業での梱包、アパレルでのタグ切りなど、職場ではハサミを使う場面が意外に多く存在します。この「苦手」が原因で、仕事の効率が上がらなかったり、ミスを繰り返してしまったりすることで、自信を失い、就労への意欲そのものが削がれてしまうケースも少なくありません。
しかし、この問題は単なる「不器用さ」や「努力不足」で片付けられるものではありません。背景には、発達性協調運動症(Developmental Coordination Disorder: DCD)をはじめとする発達障害の特性が関係している可能性があります。この記事では、就労移行支援事業所の視点から、ハサミが苦手な原因を専門的に解き明かし、具体的なトレーニング方法、そして就労先で安心して働くための合理的配慮まで、一貫したサポート体制を詳しく解説します。
発達障害というと、学習障害(LD)、注意欠如・多動症(ADHD)、自閉スペクトラム症(ASD)がよく知られていますが、同様に重要なのが発達性協調運動症(DCD)です。DCDは、年齢に期待されるような協調運動スキルの獲得と遂行が著しく困難な状態を指します。
米国精神医学会の診断マニュアル『DSM-5』では、DCDの診断基準の一つとして、「運動技能の欠如が、年齢相応の日常生活活動を著明かつ持続的に妨げており、学業、就労前の活動、就労、余暇、および遊びに影響を与えている」ことが挙げられています。つまり、「不器用さ」が日常生活や社会参加に支障をきたしている状態がDCDなのです。
出典:厚生労働省「発達性協調運動症(DCD)の理解と支援のためのマニュアル」
DCDは、単独で存在する場合もありますが、ADHDやASDなど他の発達障害と併存することも多くあります。しかし、その「不器用さ」は本人の努力不足や不真面目さと誤解されやすく、障害として認識されずに適切な支援を受けられていないケースが少なくありません。
ハサミを使うという一見単純な動作には、複数の高度な運動機能が連携して働いています。DCDの特性を持つ人がハサミ操作に困難を感じる背景には、主に以下の4つの要因が考えられます。
子どもの頃から、図画工作の授業や日常生活の中で「みんなができるのに、自分だけできない」という経験を繰り返してきた人は少なくありません。周囲から「なぜできないの?」「もっと頑張って」といった不適切な声かけを受け続けると、「自分はダメな人間だ」というネガティブな自己認識が形成されやすくなります。
このような経験は、自己肯定感の低下、不安、抑うつといった二次的な心理的問題を引き起こすリスクを高めます。 その結果、ハサミを使う作業だけでなく、新しいことへの挑戦全般に消極的になってしまうことがあります。就労移行支援では、こうした心理的な側面にも配慮し、安心してスキルアップに取り組める環境を提供することが極めて重要です。
就労移行支援事業所では、単にハサミの使い方を教えるだけでなく、一人ひとりの特性に合わせた体系的なアプローチでスキルアップを支援します。その基本となるのが「個人-課題-環境」モデルと、成功体験を積み重ねる「スモールステップ法」です。
運動の苦手さは、本人の能力(個人)だけの問題ではありません。取り組む作業(課題)の難易度や、使用する道具・物理的な環境(環境)との相互作用によって引き起こされます。この考え方に基づき、支援では以下の3つの側面から総合的にアプローチします。
このモデルを用いることで、「なぜできないのか」を多角的に分析し、一人ひとりに最適な支援計画を立てることが可能になります。
DCDの特性がある方は、運動の学習に時間がかかる傾向があります。そのため、できないことを繰り返し練習させるのではなく、「できる」ことから始めて少しずつステップアップしていく「スモールステップ法」が非常に有効です。以下に、ハサミ操作のスキルアップに向けた具体的なステップ例を示します。
基礎的なスキルが身についてきたら、就労移行支援事業所内の模擬的な職場環境で、より実践的な作業訓練を行います。例えば、以下のような訓練が考えられます。
これらの訓練は、単なるスキル習得の場ではありません。時間を計って作業効率を意識したり、他の利用者と協力して作業を進めたりすることで、実際の職場で求められる報告・連絡・相談のスキルや、時間管理能力も同時に養います。何よりも、「できた」「役に立った」という成功体験を積み重ねることが、失われた自信を回復し、就労へのモチベーションを高める上で最も重要な要素となります。
スキル訓練と並行して、就労移行支援では、就職活動から就職後の職場定着までを見据えた支援を行います。自分の特性を理解し、企業に適切な配慮を求めることが、長く安定して働くための鍵となります。
就職活動において、自分の障害特性や苦手なことを隠すのではなく、客観的に理解し、前向きに伝えることが重要です。就労移行支援では、スタッフとの面談やグループワークを通じて自己理解を深めます。
例えば、「ハサミを使う細かい作業は少し時間がかかりますが、その分、データ入力のような集中力と正確性が求められる作業は得意です。作業手順をマニュアル化していただけると、より早く正確に業務を遂行できます」というように、苦手なこと(課題)と、その対処法、そして得意なこと(強み)をセットで伝える練習を行います。
こうした内容はなどの支援ツールにまとめることで、企業側も本人の特性や必要な配慮を具体的に理解しやすくなります。
障害者雇用促進法では、事業主に対して、障害のある人が能力を発揮できるよう、過重な負担にならない範囲で「合理的配慮」を提供することが義務付けられています。ハサミの使用が苦手な場合、以下のような配慮が考えられます。
これらの配慮は、就職前の職場実習の段階で企業と相談し、試してみることが効果的です。就労移行支援事業所は、本人と企業の間に立って、最適な配慮事項を調整する役割を担います。
就職はゴールではなく、新たなスタートです。就労移行支援事業所の多くは、就職後も一定期間、職場定着支援を行います。これには、地域障害者職業センターが提供するジョブコーチ支援制度の活用も含まれます。
定着支援では、支援スタッフが定期的に職場を訪問し、本人との面談で悩みや困りごとを聞き取ったり、上司や同僚から業務の様子をヒアリングしたりします。例えば、「新しい作業でハサミを使う場面が増えて困っている」という相談があれば、企業側と協力して、再度、職務内容の調整や新たな補助具の導入を検討します。このように、就職後も継続的にサポートすることで、課題を早期に発見・解決し、長期的な安定就労へと繋げていきます。
「ハサミがうまく使えない」という悩みは、発達障害の特性に起因する根深い課題であり、本人の自信や就労意欲を大きく左右します。しかし、それは決して克服できない問題ではありません。
重要なのは、その背景にある特性を正しく理解し、「個人・課題・環境」の視点から適切なアプローチを取ることです。就労移行支援事業所は、専門的な知識と経験に基づき、基礎的なスキル訓練から、成功体験を積むための模擬就労、そして就職活動、職場定着まで、一人ひとりのペースに合わせて一貫したサポートを提供します。
もしあなたが、あるいはあなたの周りの誰かが、同じような悩みで一歩を踏み出せずにいるのであれば、ぜひ一度、お近くの就労移行支援事業所や発達障害者支援センターなどの専門機関に相談してみてください。一人で抱え込まず、専門家というパートナーと共に、自分らしい働き方を見つける旅を始めましょう。