近年、日本の障害者雇用は大きな転換期を迎えています。企業に求められる社会的責任が増す中で、特に精神・発達障害のある人々の就労機会は拡大しつつあります。しかし、その一方で「採用後の定着」という新たな課題も浮き彫りになっています。本章では、この変化の背景と、就労移行支援が果たすべき役割について解説します。
障害者雇用促進法に基づき、企業には全従業員数に対して一定割合以上の障害者を雇用する義務があります。この法定雇用率は段階的に引き上げられており、2024年4月には2.5%、さらに2026年7月には2.7%に達する予定です。これにより、多くの企業で障害者採用の必要性が高まっています。
この流れを受け、企業側は単に雇用率を達成するだけでなく、採用した人材に長く活躍してもらうための戦略を模索し始めています。特に、就労意欲の高い若年層が多い精神・発達障害者は、重要な採用ターゲットとなっており、企業側の受け入れ環境整備も進んでいます。
企業の採用意欲の高まりを背景に、精神・発達障害のある人々の雇用者数は年々増加しています。厚生労働省の報告によると、2024年には民間企業で働く精神障害者数は約15万人に達し、前年比で15.7%増加しました。これは、テレワークや短時間勤務といった柔軟な働き方が普及したことも一因と考えられます。
しかし、雇用の「量」が拡大する一方で、「質」、すなわち職場定着率には依然として大きな課題が残されています。特に精神障害のある人の場合、就職後1年時点での定着率は49.3%と、半数以上が離職しているのが現状です。離職の主な理由としては、「職場の人間関係」「業務遂行の難しさ」「体調の変動」などが挙げられます。
この「採用はされるが、定着が難しい」というギャップを埋めるために、就職前の準備と就職後のサポートを一体的に提供する就労移行支援の役割が、これまで以上に重要性を増しているのです。
職場でのコミュニケーションやチームワークは、障害の有無にかかわらず、安定して働く上で不可欠なスキルです。就労移行支援事業所では、これらのスキルを実践的に養うため、様々なプログラムが提供されています。その中でも近年、特に精神・発達障害のある方の支援において効果的だと注目されているのが「コンセンサスゲーム」です。
コンセンサスゲームとは、与えられた特定の状況下で、チームメンバー全員で話し合い、一つの結論(合意)を導き出すことを目的としたグループワークです。重要なのは、多数決で安易に結論を出すのではなく、全員が「納得」するプロセスを重視する点にあります。
例えば、有名な「NASAゲーム」では、「月面で遭難した宇宙飛行士」という設定のもと、手元に残された15個のアイテムについて、生き延びるためにどれが重要かをチームで話し合い、優先順位を決定します。個人の考えとチームの結論を比較し、その差異からチームで協力することの有効性を学びます。
このゲームの目的は、正解を当てることそのものよりも、合意に至るまでの過程で、他者の意見に耳を傾け、自分の考えを伝え、最終的にチームとしての最適解を見つけ出す訓練を行うことにあります。
コンセンサスゲームは、ソーシャルスキルトレーニング(SST)の一環として非常に有効です。特に、精神・発達障害のある方が職場で直面しやすい課題の解決に直結するスキルを、安全な環境で楽しみながら学べるという大きなメリットがあります。
このように、コンセンサスゲームは単なるレクリエーションではなく、就職後の安定した職業生活を見据えた、極めて実践的なトレーニング手法として位置づけられているのです。
コンセンサスゲームは、楽しみながら職場で不可欠なソフトスキルを磨く絶好の機会です。このゲームを通じて、特に精神・発達障害のある方が自身の強みを活かし、課題を克服するために役立つ3つの重要なスキルが養われます。
職場で自分の意見や考えを伝えることに不安を感じる方は少なくありません。コンセンサスゲームでは、「なぜそのアイテムが重要だと思うのか?」といった形で、自分の考えに根拠を持たせ、論理的に説明することが求められます。最初はうまく言葉にできなくても、チームメンバーとの対話を通じて、自分の思考を整理し、相手に伝わるように表現する練習を繰り返すことができます。これは、業務上の提案や、必要な配慮を上司に説明する際にも直接役立つスキルです。
チームで仕事を進める上では、自分の意見を主張するだけでなく、他者の意見に真摯に耳を傾ける「傾聴力」が不可欠です。コンセンサスゲームでは、「自分では思いつかなかった」「そんな考え方があったのか!」という発見が数多くあります。他者の意見を否定から入るのではなく、「なぜそう考えたのか」という背景を理解しようと努める姿勢は、多様な価値観を持つ同僚と円滑な人間関係を築くための土台となります。他人の意見を受容し整理する力は、円滑なコミュニケーションの鍵です。
コンセンサスゲームの核心は、「正解」よりも「納得解」を目指すプロセスにあります。意見が対立した際に、多数決で決めるのではなく、お互いの意見のメリット・デメリットを比較検討し、全員が「それなら仕方ない」「その方がチームにとって最善だ」と納得できる結論を探ります。この「みんなでどうしたらうまくいくか」を考える力は、職場での問題解決やプロジェクト進行において極めて重要です。対立を乗り越えて一つの目標に向かう経験は、チームの一員として貢献する自信につながります。
理論だけでなく、実際にコンセンサスゲームがどのように行われ、参加者にどのような変化をもたらすのかを見ていきましょう。ここでは、代表的な「NASAゲーム」を例に、その流れと効果を解説します。
NASAゲームは、一般的に以下のステップで進められます。
就労移行支援事業所での実践では、コンセンサスゲームを通じて参加者にポジティブな変化が見られます。以下は、よく聞かれる声や変化の例です。
これらの事例が示すように、コンセンサスゲームは単にコミュニケーションスキルを向上させるだけでなく、成功体験を通じて自己肯定感を高め、他者と協働することへの前向きな姿勢を育む効果があります。この「小さな成功体験」の積み重ねが、就職活動への自信、そして就職後の職場適応へとつながっていくのです。
就労移行支援のゴールは、単に就職することではありません。その人らしく、安定して長く働き続ける「職場定着」こそが真の目的です。コンセンサスゲームなどで培ったスキルを実際の職場で活かし、定着につなげるためには、本人、企業、支援機関の三者による緊密な連携が不可欠です。
コンセンサスゲームで学んだスキルは、実際の業務の様々な場面で応用できます。
重要なのは、就労移行支援の段階で「このスキルは職場のこの場面で使える」と意識づけることです。支援員との面談を通じて、ゲームでの経験を振り返り、「自分はどのような環境やサポートがあれば安心して働けるか」を言語化する訓練を積むことで、企業への自己PRや、入社後の円滑なコミュニケーションに繋がります。
就職後、新しい環境で新たな壁にぶつかることは少なくありません。その際に頼りになるのが「就労定着支援」というサービスです。これは、就職後の生活を支える、いわば「お仕事の伴走者」です。
就労定着支援は、就労移行支援などを利用して就職した方を対象に、就職後6ヶ月が経過した時点から最長3年間、専門の支援員が職場定着をサポートする制度です。定期的な面談を通じて仕事や生活の悩みを相談したり、本人に代わって企業側と必要な調整を行ったりします。
この定着支援を効果的に活用する上で、就労移行支援での情報が非常に重要になります。例えば、コンセンサスゲームで見られた「議論が白熱すると発言が減る」といった特性を、定着支援員が事前に把握していれば、企業の上司に「1対1で意見を聞く時間を設けてもらう」といった具体的な配慮を提案できます。
このように、就労移行支援(就職前)と就労定着支援(就職後)がシームレスに連携し、本人の特性や必要なサポートに関する情報を共有することで、企業と本人の「橋渡し役」として機能し、長期的な安定就労を実現する可能性が飛躍的に高まるのです。
本記事では、精神・発達障害のある方の就労を取り巻く環境の変化を踏まえ、就労移行支援における「コンセンサスゲーム」の活用とその効果について掘り下げてきました。
法定雇用率の引き上げに伴い、企業の障害者雇用への関心は高まっていますが、採用後の「定着」という課題は依然として残ります。この課題を解決する鍵は、職場で求められる実践的なコミュニケーション能力や協調性を、就職前にいかに身につけるかにかかっています。
コンセンサスゲームは、単なるゲームではありません。それは、楽しみながら自己表現力、傾聴力、そして合意形成能力といった「チームで働く力」を養うための、極めて有効なトレーニング手法です。安全な環境で小さな成功体験を積み重ねることは、自信を育み、就職活動、さらにはその後の職業人生における大きな支えとなります。
もしあなたが、就職や仕事上のコミュニケーションに不安を抱えているなら、就労移行支援事業所が提供する多様なプログラムに目を向けてみてはいかがでしょうか。コンセンサスゲームのようなグループワークを通じて自己理解を深め、支援員という「伴走者」と共に準備を進めることは、あなたらしい働き方を見つけ、長く活躍し続けるための確かな一歩となるはずです。