「オフィスの電話の音や同僚の話し声が、まるで頭に突き刺さるように痛い」「街の喧騒の中にいるだけで、どっと疲れてしまう」——。そんな悩みを抱える大人の発達障害当事者の方は少なくありません。それは、あなたの「我慢が足りない」からでも「気にしすぎ」だからでもありません。発達障害に伴う「聴覚過敏」という特性が原因かもしれません。
この記事では、私たち就労移行支援事業所の視点から、なぜ大きな音や特定の音が苦手なのか、その科学的背景から、具体的な対処法、そして「働きたい」という想いを実現するためのサポートについて、専門的な知見を交えながら詳しく解説します。
聴覚過敏の辛さは、単なる「音に敏感」という言葉では片付けられません。その背景には、発達障害に特有の脳機能の違いが関係していることが、近年の研究で明らかになってきています。
自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)などの発達障害では、五感から入ってくる情報を処理する脳の仕組みが、定型発達の人とは異なる場合があります。これは「感覚過敏」または「感覚鈍麻」と呼ばれ、特にASDの診断基準にも含まれるほど重要な特性です。
中でも聴覚に関する問題は、最も多く見られる感覚特性の一つです。ある調査では、ASDのある人の約50%〜70%が音に対する過敏性を抱えていると報告されています。。多くの人が気にも留めないようなエアコンの作動音、時計の秒針、遠くのサイレンといった音が、当事者にとっては耐え難い苦痛となり、集中力を奪い、心身を消耗させる原因となるのです。
私たちの脳は、次に何が起こるかを常に「予測」し、予測通りの刺激に対しては反応を弱める(慣れる)ことで、エネルギーを節約しています。しかし、最新の研究によると、ASDのある人の脳では、この予測の仕組みが不安定であったり、感覚情報を適切に減衰させる機能が弱かったりする可能性が示唆されています。
下のグラフは、マーモセット(サルの一種)を用いた研究で、脳が感覚刺激をどれだけ減衰させるか(慣れるか)を示したものです。「感覚減衰指数(s₀)」が低いほど、脳は刺激に慣れやすく、高いほど刺激をそのまま受け取ってしまう(過敏である)ことを意味します。自閉症モデルのマーモセット(自閉症A, B)は、対照群に比べてこの指数が著しく高く、感覚刺激を減衰させにくい、つまり「過敏」な状態であることがわかります。
この「フィルター」機能の不具合により、本来なら無視できるはずの環境音までが脳に大量に流れ込み、情報処理の負担が増大します。その結果、脳がオーバーヒートし、疲労感、不安、集中困難、時にはパニック(メルトダウン)を引き起こしてしまうのです。
聴覚過敏は、脳の特性だけでなく、心身の状態にも大きく左右されます。特に、ストレスや疲労、睡眠不足は自律神経のバランスを乱し、聴覚過敏の症状を増幅させることが知られています。
職場での人間関係や業務上のプレッシャー、あるいは「音に耐えなければ」という緊張感自体がストレスとなり、さらに音に対して敏感になるという悪循環に陥りやすいのです。逆に言えば、心身をリラックスさせ、生活習慣を整えることが、聴覚過敏の症状緩和にも繋がります。
聴覚過敏は「気合」で治るものではありません。しかし、適切な知識と工夫によって、その影響を大幅に軽減することは可能です。ここでは、すぐに実践できるセルフケアと環境調整のヒントをご紹介します。
最も直接的で効果的な方法は、不快な音を物理的にコントロールすることです。
最近では、聴覚過敏があることを周囲に知らせるための「聴覚過敏保護用シンボルマーク」も活用されています。イヤーマフなどに貼ることで、「音楽を聴いてサボっているわけではない」ということを視覚的に伝え、周囲の誤解を防ぎ、理解を促す助けになります。
物理的な対策と並行して、心と体の状態を整えることも非常に重要です。
セルフケアだけでは限界がある、あるいは過去に職場の音環境が原因で退職した経験があり、再就職に踏み出せない。そんな時こそ、私たち就労移行支援事業所のような専門機関の出番です。「働きたい」というあなたの想いを、具体的なスキルと戦略で支えます。
「自分がどのくらい、どんな感覚に困っているのか」を客観的に把握することは、対策を立てる上での第一歩です。就労移行支援では、「感覚プロファイル(SP)」といった専門的なアセスメントツールを用いて、個人の感覚特性を詳細に分析します。
この検査により、感覚刺激への気づきやすさ(神経学的いき値)と、それに対する行動(自己調整)のパターンから、個人の特性を以下の4つのタイプに分類し、理解を深めます。
聴覚過敏の方は「感覚過敏」や「感覚回避」の傾向が強いことが多いですが、他の感覚では「低登録」であるなど、人によってプロファイルは様々です。この結果を基に、支援員が一人ひとりに合った対処法や必要な配慮を一緒に考えていきます。
自分の特性を理解したら、次はその特性と付き合いながら働くためのスキルを身につけます。多くの就労移行支援事業所では、一人ひとりの課題に合わせたオーダーメイドの訓練を提供しています。
例えば、雑音が多い環境が苦手な方の場合、まずは静かな個別ブースでのPC作業から始め、徐々に他の利用者がいるオープンスペースでの訓練に移行するなど、段階的に環境に慣れるプログラムを実施します。同時に、イヤーマフの効果的な使い方や、疲れを感じた時の適切な休憩の取り方といったセルフケア技術も実践的に学びます。
その他にも、ストレスマネジメント、ビジネスマナー、円滑なコミュニケーションの方法など、安定して働くために必要な総合的なスキルを、自分のペースで無理なく習得することができます。
2024年4月から、事業者による障害のある人への「合理的配慮」の提供が義務化されました。 これは、聴覚過敏のある方にとって大きな追い風です。しかし、配慮を求めるには、自分の状況を的確に伝え、具体的な代替案を提示する「交渉力」が必要になります。
就労移行支援では、この「伝え方」を徹底的にサポートします。感情的に「うるさいです」と訴えるのではなく、以下のように冷静かつ具体的に伝える練習をします。
【上司への伝え方 例文】
「ご相談があるのですが、私には聴覚過敏という特性があり、周囲の物音が人一倍大きく聞こえてしまい、仕事への集中が難しい時があります。もし可能であれば、業務に集中したい時間帯に、ノイズキャンセリングイヤホンの使用を許可していただけないでしょうか。業務上の呼びかけなどには、すぐに気づけるよう配慮いたしますので、ご検討いただけますと幸いです。」
このように、「なぜ困っているのか(原因)」と「どうしてほしいのか(具体的な対策)」をセットで伝えることで、企業側も対応しやすくなります。また、就職活動の面接や、入社後の面談に支援員が同席し、専門的な立場から企業へ説明を行うことで、よりスムーズに理解と協力を得られるよう後押しします。
聴覚過敏と上手く付き合いながら働くためには、「どんな仕事をするか」と同時に「どんな環境で働くか」が極めて重要です。就労移行支援の役割は、就職をゴールとするのではなく、その人が安定して長く働き続けることまでを見据えています。
私たちは、本人の希望やスキルだけでなく、聴覚過敏の特性を考慮した職場環境を重視して、仕事探し(ジョブマッチング)を行います。
【比較的向いている可能性のある業務・環境】
【配慮が必要な可能性のある業務・環境】
もちろん、これはあくまで一般的な傾向です。重要なのは、企業実習(インターンシップ)などを通じて、実際の職場環境を体験し、自分に合うかどうかを確かめることです。就労移行支援事業所は、多くの協力企業とのネットワークを持っており、様々な職場を試す機会を提供できます。
就職はゴールではなく、新たなスタートです。新しい環境では、予期せぬ問題が起こることもあります。そこで重要になるのが「就労定着支援」というサービスです。
これは、就職後も支援員が定期的に本人と面談したり、職場を訪問したりして、困りごとがないかを確認し、問題解決をサポートする制度です。最長で3年6ヶ月間、利用することが可能です。
【定着支援の事例】
就職後にオフィスのレイアウトが変更になり、周囲の音が気になるようになったAさん。定着支援の担当者が企業と話し合い、座席位置を静かな場所へ調整してもらい、イヤホンの使用許可も改めて得ることで、再び集中して業務に取り組めるようになりました。
職場の上司や同僚には直接言いにくい悩みも、第三者である支援員が間に入ることで、円滑に解決へと導くことができます。この「会社以外の相談相手」の存在が、長期的な就労安定の鍵となります。
下のグラフは、全国の就労移行支援事業所のうち、特に定着支援に力を入れている事業所の実績を示したものです。高い就労移行率だけでなく、90%を超える高い就労定着率を維持していることがわかります。これは、就職後の継続的なサポートがいかに重要であるかを物語っています。
「大きな音が苦手」という悩みは、発達障害のある大人にとって、仕事や日常生活における深刻な障壁となり得ます。しかし、それはあなたのせいではなく、脳の特性によるものです。そして、その特性は適切な知識、工夫、そしてサポートによって乗り越えることができます。
この記事で解説してきたように、
という点を、ご理解いただけたのではないでしょうか。
もしあなたが今、「どうせ自分には無理だ」「また同じ失敗を繰り返すのが怖い」と感じているなら、どうか一人で抱え込まないでください。私たち就労移行支援事業所は、あなたのような悩みを抱える多くの方々と共に、その人らしい働き方を見つけてきた実績があります。あなたの「働きたい」という気持ちを、私たちは全力で応援します。
まずは、お近くの就労移行支援事業所や発達障害者支援センターに、気軽に相談してみることから始めてみませんか。その一歩が、あなたの「働けない」を「働ける」に変える、大きなきっかけになるはずです。