「職場で些細なことでカッとなってしまい、後で自己嫌悪に陥る」「会議中に突然、強い不安やパニックに襲われて仕事が手につかなくなる」「なぜ自分だけ、こんなにも感情のコントロールができないんだろう…」。
精神障害や発達障害のある方の中には、このような感情の波に日々翻弄され、仕事や人間関係に深刻な悩みを抱えている方が少なくありません。周囲からは「気合が足りない」「わがままだ」と誤解され、自分自身でも「努力不足だ」と責め続けてしまう。その結果、心身ともに疲弊し、休職や離職を繰り返してしまうケースは、決して珍しいことではないのです。
しかし、その苦しみは、決してあなたの「性格」や「甘え」の問題ではありません。感情のコントロールが難しい背景には、障害特性に起因する脳機能の違いという、科学的な根拠が存在します。そして、最も重要なことは、その困難さは専門的なトレーニングによって改善が可能であるということです。
この記事では、精神・発達障害のある方が職場で直面する「感情コントロール」という課題に焦点を当て、その解決の糸口を探ります。具体的には、以下の3つの視点から、深く、そして実践的に解説していきます。
一人で抱え込み、暗闇の中を手探りで進む必要はありません。この記事を通じて、専門的な支援を活用することで、自分自身の感情と上手に付き合い、安心して能力を発揮できる道が開けることを知っていただければ幸いです。あなたの「働きたい」という想いを、具体的な一歩へとつなげるための羅針盤となることを目指します。
職場で感情のコントロールに苦しむとき、多くの人が「自分の心が弱いからだ」「もっと我慢しなければ」と自身を責めてしまいます。しかし、この問題の根源は、個人の意志の力だけではどうにもならない、脳の機能的な特性に深く関わっています。この章では、感情のコントロールが難しいのは「性格」や「努力不足」の問題ではなく、科学的な背景を持つ現象であることを解説します。この理解は、自己否定から脱却し、客観的に課題を捉え、適切な対策を講じるための重要な第一歩となります。
感情調整(Emotion Regulation)とは、目標を達成するために、自分の感情の発生タイミング、強さ、持続時間、表現方法などを調整するプロセスを指します。しかし、精神障害や発達障害、特に自閉スペクトラム症(ASD)のある人にとっては、このプロセスが本質的に損なわれている可能性があることが、多くの研究で示唆されています。深刻な行動上の問題は、併存する精神疾患として捉えるよりも、この根源的な感情調整の困難さによって、より簡潔に説明できる場合があるのです。
具体的に、どのような障害特性が感情のコントロールを難しくしているのでしょうか。主要な要因を4つに分けて見ていきましょう。
アレキシサイミアとは、自分の感情を識別し、区別し、言葉で表現することが難しい特性を指します。これはASDのある人によく見られると報告されています。
例えば、上司から厳しい指摘を受けたとき、心臓がドキドキし、胃がキリキリ痛むという身体的な感覚はあっても、その感情が「怒り」なのか、「悔しさ」なのか、「不安」なのか、自分でもよくわからないことがあります。自分の感情にラベルを貼ることができないと、「なぜ自分がこんなに不快なのか」が理解できず、漠然とした強いストレスだけが蓄積していきます。感情を言葉で他者に伝えることも難しいため、「少し休ませてください」といった適切な援助要請もできず、感情が爆発するまで一人で抱え込んでしまうのです。
発達障害のある人の多くは、特定の感覚情報に対して通常とは異なる反応を示します。例えば、以下のような状況が挙げられます。
これらの感覚的な苦痛は、常に心身を緊張状態に置き、感情の「コップ」を常に満杯に近い状態にします。そのため、他の人にとっては些細な出来事(例:急な仕事の依頼)が最後の一滴となり、コップから水が溢れるように、感情的なメルトダウン(パニックや怒りの爆発)を引き起こす原因となるのです。
実行機能とは、目標達成のために思考や行動を計画し、コントロールする脳の高次機能です。これには、衝動を抑える「抑制機能」や、注意を切り替える「柔軟性」などが含まれます。発達障害のある人は、この実行機能に課題を抱えていることが多く、感情コントロールに直接的な影響を与えます。
これらの特性により、一度湧き上がった強い感情の波に飲み込まれやすく、冷静な状態に戻るまでに長い時間を要することがあります。
社会的認知とは、他者の意図や感情、社会的状況などを理解する能力です。「心の理論」の障害とも関連し、他者の視点に立って物事を考えることが苦手な場合があります。これが、職場での対人関係トラブルや、予期せぬ感情の乱れにつながります。
「他者の視点を認知的・感情的に捉え、自分自身の心の状態を認識する能力である心の理論の欠如は、乏しい感情調整と関連している可能性がある。」
(Samson, Huber, & Gross, 2012, as cited in Mazefsky et al., 2013より翻訳・引用)例えば、同僚が良かれと思って言った皮肉や冗談を文字通りに受け取ってしまい、深く傷ついたり、怒りを感じたりすることがあります。また、相手の表情や声のトーンから感情を読み取ることが難しいため、「相手が怒っているのではないか」と過剰に不安になったり、逆に相手が困っていることに気づかず、状況を悪化させてしまったりすることもあります。こうしたコミュニケーション上のすれ違いが、フラストレーションや孤立感を生み、感情的な不安定さの大きな原因となります。
職場で問題が顕在化しやすい理由
「家では比較的落ち着いているのに、職場に行くと途端に感情が不安定になる」と感じる方も多いでしょう。それは、職場という環境が、前述した障害特性を刺激し、感情コントロールを特に難しくさせる要因に満ちているからです。
環境要因:予測不能性と感覚的ノイズの洪水
多くの職場は、発達障害のある人にとって非常にストレスフルな環境です。
- 予測不能なスケジュール: 急な仕事の依頼、会議時間の変更、突然の来客対応など、見通しが立てにくい状況は強い不安を引き起こします。
- マルチタスクの要求: 電話応対をしながらメールを書き、同時に上司からの指示を聞くといった、複数のタスクを同時に処理することは、実行機能に負荷をかけ、パニックを誘発しやすくなります。
- 感覚的な過負荷: オープンなオフィス環境では、様々な音、光、人の動きが絶えず感覚を刺激します。これは、常に脳がアラート状態にあることを意味し、感情的な余裕を奪います。
対人関係要因:複雑で曖昧なコミュニケーション
職場では、家族や親しい友人との間で行われるような直接的なコミュニケーションだけでは成り立ちません。
- 「報・連・相」の難しさ: 「どの情報を」「どのタイミングで」「誰に」伝えるべきかという判断は、社会的認知の特性から非常に難易度が高い課題です。報告が遅れて叱責され、パニックに陥ることもあります。
- 雑談や飲み会のストレス: 本題から逸れた雑談の意図がわからなかったり、大勢の人が同時に話す飲み会の場が苦痛であったりするなど、非公式なコミュニケーションが大きな負担となります。
- チームでの協業: 意見調整や役割分担など、他者と歩調を合わせながら仕事を進めるプロセスは、対人関係の摩擦を生みやすく、ストレスの原因となりがちです。
パフォーマンスへのプレッシャー:完璧主義がもたらす緊張
「ミスをしてはいけない」「周りに迷惑をかけてはいけない」「期待に応えなければ」という強いプレッシャーは、常に心身を過緊張状態にさせます。特に、過去の失敗体験から自己肯定感が低下している場合、このプレッシャーはさらに強まります。常に「評価されている」という感覚が、リラックスすることを妨げ、感情の許容量を極端に小さくしてしまうのです。
この章のキーポイント
- 感情コントロールの困難さは、「性格」や「努力」の問題ではなく、障害特性に根差した脳機能の違いが背景にある。
- アレキシサイミア、感覚過敏、実行機能の課題、社会的認知の特性などが複合的に絡み合い、感情の波を引き起こしている。
- 職場は、予測不能な環境、複雑な対人関係、パフォーマンスへのプレッシャーといった要因により、これらの課題が特に顕在化しやすい場所である。
- このメカニズムを理解することは、自己否定から抜け出し、客観的な対策を講じるための第一歩となる。
【核心】就労移行支援で学ぶ!感情コントロールのための具体的なプログラム
感情コントロールの難しさが障害特性に起因することを理解した上で、次に知りたいのは「では、どうすれば良いのか?」という具体的な解決策でしょう。その最も有効な答えの一つが、就労移行支援事業所の活用です。就労移行支援は、単に就職先を見つける場所ではありません。障害のある方が安定して働き続けるために必要なスキルを、専門的なプログラムを通じて体系的に学ぶ「職業訓練校」のような役割を担っています。この章では、就労移行支援で提供される感情コントロールのための具体的なプログラムを、4つのステップに沿って詳しく解説します。
ステップ1:自己理解を深める(自分のトリガーを知る)
感情コントロールの第一歩は、敵(=制御不能な感情)を知ることから始まります。つまり、自分が「どのような状況で(When)」「どのような出来事によって(What)」「どのような感情になりやすいか(How)」を客観的に把握することです。就労移行支援では、支援員との面談や記録を通じて、この自己理解のプロセスを徹底的にサポートします。
アンガーログ(怒りの記録)の実践
特に「怒り」の感情に悩む場合に有効なのが、アンガーログです。これは、怒りを感じたときに、その状況を具体的に記録する手法です。
例えば、以下のような項目をノートやアプリに記録していきます。
- 日時: いつ怒りを感じたか?(例:月曜の午前中、夕方の疲れが溜まった時間帯)
- 場所: どこで?(例:自席、会議室、給湯室)
- 出来事: 何があったか?(例:上司から急な仕事を頼まれた、同僚の話し声が気になった)
- 思ったこと: その時、頭に浮かんだ考えは?(例:「また自分にだけ押し付けて!」「静かにしてほしい!」)
- 感情の強さ: 10段階でどのくらいの怒りだったか?
- とった行動: 実際にどうしたか?(例:舌打ちをした、黙って引き受けたが内心イライラした)
- 結果: その後どうなったか?(例:さらに気分が落ち込んだ、相手との関係が気まずくなった)
これを継続することで、自分でも気づかなかった怒りのパターンが見えてきます。「自分は、予期せぬ予定変更に特にストレスを感じるようだ」「疲れが溜まっている夕方は、些細なことでも怒りやすい」といった傾向を、支援員との面談で一緒に分析します。自分の「トリガー(引き金)」がわかれば、「その状況を避ける」「事前に心の準備をする」といった具体的な対策を立てることが可能になります。
ステップ2:感情の波を乗りこなすスキルを習得する
自分の感情のパターンを理解したら、次に、実際に感情の波が押し寄せてきたときに、それに飲み込まれずに乗りこなすための具体的なスキルを学びます。就労移行支援では、心理学的なアプローチに基づいた様々なトレーニングが提供されています。
アンガーマネジメント:怒りの衝動をコントロールする技術
アンガーマネジメントは、怒らないようにすることではなく、怒りと上手に付き合うための心理トレーニングです。就労移行支援では、以下のような実践的なテクニックを学びます。
- 6秒ルール(タイムアウト): 怒りの感情のピークは、長くても6秒程度と言われています。カッとなったら、すぐに反応せず、心の中で「1、2、3…」と6秒数える、その場を一旦離れるなどして、衝動的な言動を防ぎます。
- 思考の転換: 「~べきだ」という自分の価値観が怒りの原因になることが多々あります。「普通、報告はすぐにすべきだ」という考えが、部下の報告が遅れたときに強い怒りを生みます。これを「人には色々な事情があるかもしれない」「完璧でなくても大丈夫」といった柔軟な考え方に切り替える練習をします。
- 怒りの温度計: 自分の怒りを0(冷静)~10(激怒)の温度計で測る習慣をつけます。温度が3~4に上がってきた段階で、深呼吸をするなどのクールダウン法を実践し、沸点に達する前に対処します。
ストレスマネジメントとリラクゼーション:心身の緊張を和らげる
日々のストレスが蓄積すると、感情のコントロールはより一層難しくなります。就労移行支援では、自分に合ったストレス対処法を見つけ、日常的に実践するトレーニングを行います。
- 呼吸法: 緊張や不安を感じたときに、ゆっくりと息を吸い、長く吐き出す腹式呼吸を行うことで、副交感神経を優位にし、心身をリラックスさせます。
- 漸進的筋弛緩法: 体の各部分の筋肉に意図的に力を入れ、その後一気に緩めることを繰り返します。これにより、無意識に入っていた体の緊張に気づき、リラックス状態を作り出すことができます。
- マインドフルネス瞑想: 「今、この瞬間」の自分の感覚や呼吸に意識を集中させることで、過去の後悔や未来への不安といった雑念から心を解放し、穏やかな状態を取り戻します。
認知行動療法の活用:考え方のクセを修正する
認知行動療法(Cognitive Behavioral Therapy: CBT)は、ある出来事(出来事)に対するその人の受け取り方や考え方(認知)が、感情や行動に影響を与えるという考えに基づいています。就労移行支援のプログラムには、このCBTの考え方を取り入れたものが多くあります。
例えば、「上司に挨拶をしたが、返事がなかった」という出来事があったとします。この時、「自分は嫌われているに違いない」という自動思考(認知の歪み)が浮かぶと、「悲しい」「不安だ」という感情が生まれ、「もうあの人とは話したくない」という行動につながるかもしれません。CBTのトレーニングでは、この自動思考に対して、「本当にそうだろうか?」「他に考えられる可能性はないか?(例:忙しくて聞こえなかっただけかも、考え事をしていて気づかなかっただけかも)」と問いかけ、より現実的で柔軟な考え方(適応的思考)に修正していく練習をします。これにより、不必要なネガティブ感情を減らすことができます。
視覚的支援の活用:感情を「見える化」する
自分の感情を言葉で表現するのが苦手な人にとって、視覚的なツールは非常に有効です。「The Incredible 5-Point Scale(すごい5段階スケール)」は、その代表例です。
これは、感情やストレスの度合いを1(とても落ち着いている)から5(爆発しそう!)までの5段階の数字や色で表現するツールです。支援員と一緒に、「自分が『3』の状態のときは、どんな感じ?(例:少しソワソワする、貧乏ゆすりが始まる)」「『3』になったら、どうする?(例:冷たい水を飲む、トイレに行って一人になる)」といったルールを決めておきます。これにより、自分の感情状態を客観的に把握しやすくなるだけでなく、言葉の代わりに「今、『3』です」と指さしで示すことで、周囲に自分の状態を伝え、サポートを求めることが容易になります。
ステップ3:適切なコミュニケーション方法を身につける
感情的なトラブルの多くは、対人関係の中で発生します。自分の気持ちを適切に伝えられなかったり、相手の意図を誤解したりすることが、怒りや不安の引き金になります。就労移行支援では、職場での円滑な人間関係を築くためのコミュニケーションスキルを実践的に学びます。
ソーシャルスキルトレーニング(SST):職場の対人スキルを学ぶ
ソーシャルスキルトレーニング(Social Skills Training: SST)は、社会生活に必要な対人関係のスキルを、ロールプレイングなどを通じて具体的に練習するプログラムです。
例えば、以下のような職場でよくある場面を想定して練習します。
- 報告:「〇〇の件ですが、△△まで完了しました。次の指示をお願いします」と、結論から簡潔に報告する練習。
- 質問:「申し訳ありません、〇〇の部分が理解できなかったので、もう一度説明していただけますか?」と、わからないことを明確にして質問する練習。
- 依頼・断り方: 自分の業務が手一杯のときに、「申し訳ありません、今〇〇の作業で手が離せないので、1時間後でもよろしいでしょうか?」と、相手を不快にさせずに状況を伝えて調整する練習。
SSTでは、支援員や他の利用者が上司役や同僚役を演じ、実践的な練習を繰り返します。良かった点や改善点をフィードバックしてもらうことで、頭で理解するだけでなく、体でスキルを覚えていくことができます。
アサーショントレーニング:自分も相手も尊重する伝え方
アサーションとは、自分の意見や気持ちを、攻撃的(アグレッシブ)になったり、我慢して言わない(ノン・アサーティブ)のではなく、正直に、率直に、そして対等な立場で相手に伝えるコミュニケーションスキルです。感情的になりやすい人は、自分の要求を攻撃的に伝えてしまったり、逆に不満を溜め込んで後で爆発したりしがちです。アサーショントレーニングは、その中間の「ちょうど良い」伝え方を身につけるのに役立ちます。
例えば、列に割り込まれた場合、
- アグレッシブ:「割り込むな!」と怒鳴る。
- ノン・アサーティブ:何も言えず、イライラしながら我慢する。
- アサーティブ:「すみません、私が先に並んでいたようですので、後ろに並んでいただけますか?」と冷静に事実と要求を伝える。
就労移行支援では、このような具体的な場面での言い換えを練習し、「I(アイ)メッセージ」(「(あなたが)なぜやってくれないんだ」ではなく、「(私は)〇〇で困っているので、手伝っていただけると助かります」と、自分を主語にして伝える)などのテクニックを学びます。
ステップ4:実践の場で試す(模擬就労・職場実習)
プログラムで学んだスキルは、実践で使ってこそ意味があります。多くの就労移行支援事業所では、実際の職場に近い環境で作業を行う「模擬就労」や、提携企業に出向いて働く「職場実習(インターンシップ)」の機会が提供されています。
模擬就労では、事業所内で他の利用者とチームを組んで、データ入力や軽作業などの業務に取り組みます。時間を守る、報告・連絡・相談をするといった、働く上での基本的なルールを実践します。この中で感情的になりそうな場面があれば、ステップ2で学んだリラクゼーション法を試したり、ステップ3で学んだアサーティブな伝え方を実践したりします。
職場実習では、さらに一歩進んで、実際の企業で働きます。支援員が事前に企業側と連携し、本人の特性や必要な配慮について伝えてくれるため、安心して挑戦できます。実習中に困ったことがあれば、すぐに支援員に相談できます。実習後には、企業からのフィードバックと支援員との振り返りを行い、「できたこと」と「今後の課題」を明確にします。この「安全な環境での試行錯誤」を通じて、成功体験を積み重ね、働くことへの自信を育んでいくことができるのです。
就労後も安心!長く働き続けるための「切れ目のない支援」体制
就労移行支援を経て無事に就職が決まったとき、それはゴールではなく、新たなスタートラインです。特に感情のコントロールに課題を抱える方にとって、就職後の職場環境に適応し、安定して働き続けることは大きな挑戦となります。実際、障害のある方の就職後1年での離職率は一般労働者よりも高く、特に精神障害のある方は約半数が1年以内に離職してしまうという厳しいデータもあります。この課題を乗り越えるためには、就職という「点」の支援だけでなく、就職前から就職後までを見通した「線」の支援、すなわち「切れ目のない支援」体制が不可欠です。この章では、「本人」「企業」「支援機関」の三者がどのように連携し、長期的な職場定着を実現していくべきかを具体的に解説します。
【本人】にできること:セルフケアと上手な「頼り方」
長く働き続けるためには、他者の支援を待つだけでなく、自分自身で心身のコンディションを整え(セルフケア)、必要なときに適切な助けを求める(上手な頼り方)スキルが重要になります。就労移行支援は、これらのスキルを身につけるための準備期間でもあります。
自己分析と配慮事項の整理
就労移行支援のプロセスを通じて、自分の感情のトリガー、得意なこと・苦手なこと、そしてどのような環境やサポートがあれば能力を発揮しやすいかが明確になってきます。これを「自分の取扱説明書」として整理しておくことが極めて重要です。例えば、
- トリガーと対処法:「急な予定変更でパニックになりやすいので、変更は可能な限り早めに、文書で伝えてほしい。パニックになった際は、5分ほど静かな場所でクールダウンする時間を許可してほしい。」
- 業務上の配慮:「口頭での指示は聞き漏らしや誤解が生じやすいため、タスクはチャットやメールなどテキストで指示してほしい。複数の指示を同時に出されると混乱するため、一つずつお願いしたい。」
- 環境上の配慮:「聴覚過敏があるため、業務に集中する際はノイズキャンセリングイヤホンの使用を許可してほしい。」
このように具体的な「配慮事項」をまとめておくことで、企業に何を伝えるべきかが明確になります。
適切な自己開示(セルフ・アドボカシー)
整理した配慮事項を、企業側に伝えることが「自己開示」です。しかし、ただ闇雲に自分の障害について話せば良いわけではありません。「どの範囲の情報を(What)」「誰に(Whom)」「どのタイミングで(When)」伝えるか、戦略的に考える必要があります。これも就労移行支援の支援員と相談しながら準備すべき重要なスキルです。
例えば、面接の段階では「集中力を持続させるために、定期的に短い休憩を取らせていただくなどの配慮をいただけると、安定して業務に貢献できます」といった形で、自身の課題と、それに対する前向きな対策をセットで伝えます。入社後は、直属の上司に、より具体的な業務上の配慮を相談するなど、相手や状況に応じた伝え方を練習しておくことが、企業側の理解と協力を得る鍵となります。
相談ネットワークの構築
職場で困難に直面したとき、一人で抱え込まないための「相談ネットワーク」を事前に構築しておくことが、心の安定に繋がります。このネットワークは、多層的に築くことが理想です。
- 社内の相談相手: 直属の上司、人事担当者、メンターなど、職場で公式に相談できるルート。
- 社外の専門家: 就職後もサポートしてくれる「就労定着支援」の担当者、定期的に通院している主治医やカウンセラー。
- プライベートな支え: 家族や信頼できる友人など、仕事とは関係なく話を聞いてくれる存在。
「ちょっと疲れているな」と感じた初期段階で、これらの相談相手に状況を話すことで、問題が深刻化する前に対処することが可能になります。
【企業】に求められること:定着率を高める環境整備と合理的配慮
障害者雇用促進法の改正により、企業の法定雇用率は段階的に引き上げられており(2024年4月に2.5%、2026年7月には2.7%へ)、障害者雇用は単なる社会貢献活動ではなく、重要な経営課題となっています。採用した人材に長く活躍してもらう「職場定着」は、この課題を達成するための核心です。感情コントロールに課題のある従業員の定着率を高めるために、企業側にはどのような取り組みが求められるのでしょうか。
採用時のミスマッチ防止:入口の重要性
離職の最も大きな原因の一つは、採用段階での「ミスマッチ」です。本人の適性や希望と、業務内容・職場環境が合っていないと、早期離職に繋がりやすくなります。このミスマッチを防ぐために、以下の取り組みが有効です。
- 就労選択支援の活用: 2025年10月から本格導入される「就労選択支援」は、就労移行支援などを利用する前に、本人が自分に合った働き方やサービスを見極めるための制度です。企業側もこの制度を理解し、支援機関と連携して実習生を受け入れることで、採用候補者の適性をより深く理解できます。
- 職場実習・トライアル雇用の実施: 採用前に数週間~数ヶ月間の実習期間を設けることで、本人と企業双方がお互いを理解する貴重な機会となります。株式会社ダイキンサンライズ摂津の成功事例では、採用前の実習を重視し、ミスマッチを防ぐことで高い定着率を実現しています。
環境整備と合理的配慮の実践
障害者差別解消法で義務付けられている「合理的配慮」は、職場定着の要です。これは、本人の申し出に基づき、過度な負担にならない範囲で、障害特性による困難を取り除くための調整を行うことです。
- 物理的環境の調整: 視覚情報が過多にならないようパーテーションで区切る、聴覚過敏のある従業員のために静かな席を用意する、といった物理的な工夫。
- 業務内容の調整: 指示を「あれもこれも」と一度に出すのではなく、一つずつ具体的に伝える。口頭だけでなく、チェックリストやマニュアルを作成して視覚的に示す。最初は簡単な業務から始め、習熟度に応じて段階的に業務範囲を広げる(スモールステップ)アプローチも有効です。
- 柔軟な働き方の導入: 通院のための休暇取得への配慮、体調に応じて休憩を取りやすくする、ラッシュアワーを避けるための時差出勤や在宅勤務の導入など。
社内理解の促進と相談しやすい雰囲気づくり
最も重要な合理的配慮は、周囲の「理解」かもしれません。人事担当者だけでなく、直属の上司や同僚が障害特性について正しく理解し、協力的な姿勢を示すことが、本人の安心感に繋がります。
職場全体で障がい者に対する理解を深めるための取り組みも重要です。例えば、全社員向けの意識啓発研修を実施したり、障がいのある従業員との交流会を定期的に開催したりすることで、共生社会の実現に向けて一歩を踏み出すことができます。
(きいちサービス株式会社のコラムより引用)
管理職向けの研修で、障害特性や適切な指示の出し方、面談での傾聴スキルなどを学んだり、気軽に相談できるメンター制度を導入したりすることが、孤立を防ぎ、定着率の向上に直結します。
キャリアパスの提示とモチベーションの維持
「負担をかけないように」という配慮から、いつまでも同じ単純作業だけを任せ続けると、本人の働く意欲(モチベーション)を削いでしまうことがあります。「ここで成長できない」と感じ、離職に繋がるケースも少なくありません。本人の得意なことや希望を尊重し、スキルアップの機会を提供したり、「将来的にはこんな役割を期待している」といったキャリアパスを示したりすることが、やりがいを引き出し、長期的な活躍に繋がります。株式会社SHIFTの成功事例では、200を超える多様な業務を用意し、個々の強みを活かせる適材適所の人材配置と独自の評価システムで、85.2%という高い定着率を達成しています。
【支援機関】の役割:就労移行から定着までの一貫したサポート
本人と企業だけでは解決が難しい課題も、専門的な第三者である支援機関が間に入ることで、円滑に進むことが多くあります。支援機関は、就職活動期から定着期まで、一貫して本人と企業を支える重要な役割を担います。
就労移行支援と就労定着支援のシームレスな連携
就職後のサポートとして、「就労定着支援」という障害福祉サービスがあります。これは、就労移行支援などを利用して就職した人が、その職場で長く働き続けられるように、就職後6ヶ月から最大3年間、専門の支援員がサポートを提供する制度です。
理想的なのは、就職前から本人を支援してきた就労移行支援事業所が、そのまま就労定着支援も行うケースです。これにより、本人の特性や課題、企業との関係性を熟知した支援員が継続して関わることができ、情報共有のロスがない「シームレスな支援」が実現します。支援員は、定期的に本人と面談して仕事や生活の悩みを聞いたり、企業を訪問して上司と情報交換を行ったりします。
企業と本人の「橋渡し役」としての機能
従業員本人が、上司に必要な配慮を直接伝えにくい場合や、企業側がどのように配慮すれば良いか分からない場合があります。そのようなとき、就労定着支援員が「橋渡し役」となります。
- 企業への助言: 支援員が、本人の障害特性を専門的な視点から企業に説明し、「このような指示の出し方をすると、ご本人は理解しやすいです」「最近疲れが見えるので、一度業務量を見直してみてはいかがでしょうか」といった具体的な助言を行います。
- 三者面談の実施: 本人、企業(上司・人事)、支援員の三者で定期的に面談の場を設けます。これにより、課題を早期に発見し、関係者全員で共有しながら解決策を探ることができます。外部の専門家が加わることで、客観的な視点から話し合いが進み、感情的な対立を避けやすくなります。
ジョブコーチ(職場適応援助者)の活用
より専門的で集中的な支援が必要な場合には、「職場適応援助者(ジョブコーチ)」を活用することも有効です。ジョブコーチは、地域障害者職業センターなどから派遣され、職場に直接出向いて、本人と企業の双方を支援する専門家です。
ジョブコーチは、本人に対して仕事の進め方や同僚とのコミュニケーション方法を具体的に指導する一方、企業(上司や同僚)に対しては、本人への効果的な関わり方や指導方法について助言します。この直接的な介入により、職場への適応をスムーズに進めることができます。
この章のキーポイント
- 職場定着は、本人・企業・支援機関の三者連携によって実現される。
- 本人は、自己理解を深め、適切な自己開示と相談ネットワークの構築を行う。
- 企業は、採用時のミスマッチを防ぎ、合理的配慮とキャリアパスの提示を通じて、働きがいのある環境を整備する。
- 支援機関は、就労移行から就労定着まで一貫して関わり、本人と企業の「橋渡し役」として課題解決をサポートする。
- これらの「切れ目のない支援」体制が、感情の波に左右されず、安心して長く働き続けるためのセーフティネットとなる。
一人で悩まないで。感情コントロールと就労の相談ができる場所
ここまで、感情コントロールの難しさの背景と、就労移行支援で学べるスキル、そして長く働くための支援体制について解説してきました。しかし、いざ行動しようと思っても、「具体的にどこに相談すればいいのかわからない」という方も多いでしょう。幸い、日本には障害のある方の就労と生活を支えるための様々な公的機関や福祉サービスが存在します。一人で悩みを抱え込まず、まずはこれらの窓口にアクセスしてみることが、問題解決への大きな一歩となります。ここでは、主な相談先とその役割を分かりやすく紹介します。
1. 就労移行支援事業所
この記事で中心的に取り上げてきた、障害のある方が一般企業への就職を目指すための障害福祉サービスです。感情コントロールのトレーニングを含む職業訓練、自己分析、就職活動のサポート、そして就職後の定着支援まで、就労に関する一連のプロセスをトータルで支援してくれます。事業所ごとにプログラムの内容や雰囲気が異なるため、いくつかの事業所を見学・体験し、自分に合った場所を選ぶことが重要です。
- 主な支援内容: 感情コントロールプログラム、SST、PCスキル訓練、ビジネスマナー、模擬就労、職場実習、求人紹介、応募書類作成、面接練習、就労定着支援など。
- 対象: 一般企業への就労を希望する65歳未満の障害のある方。
2. 発達障害者支援センター
各都道府県・指定都市に設置されている、発達障害に特化した専門的な相談支援機関です。発達障害のあるご本人やその家族からの様々な相談に応じ、適切な情報提供や助言を行います。直接的な職業訓練は行いませんが、医療、保健、福祉、教育、労働などの関係機関と連携しており、その人の状況に合った支援機関(例えば、就労移行支援事業所や医療機関)を紹介してくれる地域の「ハブ」のような存在です。
- 主な支援内容: 発達障害に関する相談対応、支援計画の作成、関係機関との連携・紹介、ペアレント・トレーニングなど。
- 対象: 発達障害のある方(診断の有無を問わない場合が多い)とその家族、関係者。
3. 障害者就業・生活支援センター(なかぽつ)
障害のある方の「仕事」と「生活」の両面を一体的に支援する公的機関で、全国に設置されています。「なかぽつ」という愛称で呼ばれることもあります。就職に関する相談や職場定着支援といった「就業支援」と、金銭管理、健康管理、住居のことなど、安定した職業生活を送るための「生活支援」をワンストップで受けられるのが特徴です。企業への訪問や家庭訪問も行っており、地域に根差したきめ細やかなサポートが期待できます。
- 主な支援内容: 就職相談、職場実習の斡旋、就労定着支援、生活習慣や金銭管理に関する助言、各種手続きの支援など。
- 対象: 就職を希望している、または在職中の障害のある方。
4. ハローワーク(公共職業安定所)
全国に設置されている国の雇用サービス機関です。ハローワークには、障害のある方の就職を専門にサポートする「専門援助部門(障害者担当窓口)」が設けられています。専門的な知識を持つ職員や相談員が、障害の特性や希望に応じた職業相談、職業紹介、求人情報の提供などを行ってくれます。就労移行支援事業所などの福祉機関とも連携しており、就職から職場定着まで一貫した支援体制の一翼を担っています。
- 主な支援内容: 障害者専門の求人紹介、職業相談、応募に関する助言、トライアル雇用の紹介など。
- 対象: 求職中の障害のある方。
5. 医療機関(精神科・心療内科)
感情のコントロールが著しく困難な場合や、気分の落ち込み、不眠などが続く場合は、医学的なアプローチが必要なこともあります。精神科や心療内科などの医療機関では、専門医による診断やカウンセリング、必要に応じた薬物療法を受けることができます。薬物療法によって、感情の波を穏やかにしたり、不安や衝動性を和らげたりすることで、各種のトレーニングに集中しやすくなる効果も期待できます。また、医師に診断書や意見書を作成してもらうことで、障害福祉サービスを利用する際の手続きがスムーズに進む場合もあります。就労支援と並行して、定期的に通院し、主治医に心身の状態を相談することは、安定した就労を続ける上で非常に重要です。
- 主な支援内容: 診断、薬物療法、カウンセリング、各種診断書・意見書の作成など。
- 対象: 精神的・心理的な不調を感じているすべての人。
これらの機関は、それぞれ役割が異なりますが、互いに連携しています。どこに相談すれば良いか迷った場合は、まずはお住まいの市区町村の障害福祉担当窓口や、発達障害者支援センターに連絡してみるのが良いでしょう。そこから、あなたの状況に最も適した支援へと繋いでくれるはずです。
まとめ:専門的支援を活用し、自分らしく働き続ける未来へ
本記事では、精神・発達障害のある方が職場で直面する「感情コントロール」という深刻な課題について、その科学的背景から、就労移行支援で学べる具体的な対処法、そして就職後に長く働き続けるための支援体制までを多角的に掘り下げてきました。
改めて、最も重要なメッセージを再確認しましょう。職場で感情のコントロールが難しく、仕事や人間関係に支障をきたしてしまうのは、決してあなたの「性格が悪いから」でも「努力が足りないから」でもありません。それは、アレキシサイミア、感覚過敏、実行機能の課題といった、障害特性に根差した脳機能の違いが背景にある、いわば「特性」の一つなのです。この事実を理解し、自己否定のループから抜け出すことが、問題解決の出発点となります。
そして、希望は、その困難さが専門的な支援によって乗り越えられるという点にあります。就労移行支援事業所では、以下のような具体的なスキルを体系的に学ぶことができます。
- 自己理解: アンガーログなどを通じて、自分の感情のパターンやトリガーを客観的に把握する。
- 感情調整スキル: アンガーマネジメントやリラクゼーション法を学び、感情の波に飲み込まれない技術を身につける。
- コミュニケーションスキル: SSTやアサーショントレーニングを通じて、対人関係のトラブルを未然に防ぐ伝え方を習得する。
これらのスキルを、模擬就労や職場実習といった安全な環境で実践し、自信を育んでいく。これが、就労移行支援が提供する価値の核心です。
さらに、就労はゴールではありません。本人、企業、支援機関(就労移行支援・就労定着支援)が三位一体となって連携する「切れ目のない支援」体制を築くことで、就職後の安定した職業生活が可能になります。本人が自身の特性を理解し上手に助けを求める力、企業が合理的配慮と成長機会を提供する環境、そして支援機関が両者の橋渡し役を担うこと。この三者の協力関係こそが、誰もが安心してその能力を発揮できるインクルーシブな職場環境を実現する鍵なのです。
もし今、あなたが一人で悩み、先の見えない不安の中にいるのなら、どうかその手を伸ばしてみてください。あなたの周りには、発達障害者支援センター、障害者就業・生活支援センター、そして数多くの就労移行支援事業所など、あなたの「働きたい」という想いを支えるための専門家たちがいます。まずは近くの相談機関に一本の電話をかける、ウェブサイトを訪れてみる。その小さな一歩が、あなたの未来を大きく変えるきっかけになるはずです。